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百島愛の半生を基にしたお話です。

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だけど、A君とは小学校の中学年ではクラスが分かれてしまった。それでも親同士の交流は盛んで、この年のある休日にA君の家族、私の家族、それ以外の家族などのたくさんのグループで夢の国へ遊びに行った。そこで人見知りは少しだけしなくなっていった。たくさんの人が私を知っていてくれることは怖いことじゃないんだと知れたのだ。

 

A君と私は体が小さい方だったので、祖父が昔やっていた剣道を一緒に習いに行くことになった。それで身長が伸びるわけではなかったけれど、運動神経抜群なA君に比べて、私は運動が苦手だったので実力差はすぐに出ていた。

 

中学年の時の担任D先生は本当に優しい先生だった。誰に対しても分け隔てなく平等でクラス全員の子を下の名前で呼んでくれていた。同じ名前の子が何人かいる時はクラスメイトが呼ぶあだ名で呼んでいた。先生でもあるし、同じクラスメイトのような視線でも私たちを見ていてくれた。私は、このD先生が大好きだった。D先生は、給食の時間にご飯が余ると、いつもおにぎりを作ってくれた。それを給食の残りを食べたい人たちがじゃんけんで分け合う。私も一度だけ、わかめご飯の時にじゃんけんで獲得したことがあったけど、いつもの給食がまた違って楽しめたのは今もいい思い出だ。クラスメイトもいい人が多かった。

 

楽しかった時期はあっという間に過ぎて、高学年へ差し掛かる頃、A君の一家が引っ越すことを知った。その時には私もA君も剣道は辞めていて、私はお琴を習いに行っていて、A君は高い身体能力を活かして体育教室のようなものに通っていると聞いていた。4年生の時の社会科見学の日の朝、A君の母から電話があって

 

「今日の社会科見学のしおり、ちょっと見せに持ってきてくれない?うちのA、学校に置いてきちゃったみたいでさ。持って行くものが分からないのよ。」

 

と言われて、私は歩いてすぐの家を訪ねた。

まだ、この時には引っ越しをするなんて聞いていなかったけれど、隣のクラスとは言え、男女で違うせいもあってか学校で顔を合わす機会もほとんど無くて、久し振りに会ったA君は私よりも少し背が高くなっていた。

私は、A君に社会科見学のしおりを渡して、持って行くものを彼は確認していた。お弁当以外にも特別に持っていくものがいくつかあったのでA君の母は

 

「愛ちゃんが近くにいて助かったわー。」

 

と、寒くなっていく季節だからと、温かいココアを淹れてくれて飲んでA君の支度が終わるのを待っていた。

 

「誰かと学校行く約束してる?してないなら久し振りに…一緒に…学校行く?」

 

と言ってくれたA君。特に約束もしていない。というか、この地域に住む子供は少ないので、いつも弟が追いかけてくることが多かった。なのでA君についていく形で私たちは学校に向かった。ほんの2年くらい前は色んなことを話しながら登下校を一緒にしていたけれど、お互いに別のクラス、そして同性の友達ができたこともあり、恥ずかしさもあって会話があまり続かなかった。でも、男女っていう感じより、小さい頃から一緒なせいか姉弟のような、兄妹のような感じが近い。

 

学校が近くなった時、その近辺にA君のクラスメイトが住んでいることもあり

 

「俺、友達ン家に寄るから。じゃあね。」

 

と言って走って行ってしまった。

 

それから、ちゃんとお別れをすることもなく、A君は隣町に引っ越していった。それでも親同士は連絡しあっていたようで5年生になったばかりの大型連休の時に兄弟も一緒にA君たちの新しい家に遊びに行った。

やっと自分だけの部屋が持てたことを兄や弟に話しているけれど、私はその場に近くには行けなかった。A君のお姉さんとお話をした。ほんの少しの間に更にA君は大きくなっていた。小さい頃、私と同じくらいだった身長は私よりも少し飛びぬけているように見えた。

 

しかし、そこで衝撃的な話を聞くことになった。引っ越してからまだ少ししか経ってないはずなのに、夏休みに関西方面へ引っ越すことになったという。

 

「今みたいに会えなくなるわね。」

 

と、母同士が悲しがっていた。でも私たちは何も言えなかった。恋愛感情も分からない時だったし、今大人になって思い返しても、A君への気持ちは兄や弟に向ける「家族愛」と同じだったと思う。一緒にいてくれたことに感謝し、何気ないことにも理解してくれた人だったから。

 

01.

私は、その年の夏に百島家の父と母の第二子の長女として生まれた。母方の祖父母も暮らす家で二歳上の兄、二歳下の弟、最大で7人家族だった時期がある。でも、祖母は弟が生まれて1年もしない内に病気で他界したため、私自身も物心がついていなかったせいか、その当時の記憶があまりない。

 

でも、微かな記憶に紺色の寝間着を着た女性の隣で眠った時に、ほのかな石鹼の香りがしていたことがある。誰かも分からないけれど女性の温かい手のひらが小さな私の手を握っていてくれた。そのことを少し成長してから母に話したら、その女性は間違いなく祖母だということを言われた。祖母は紺色の寝間着がお気に入りだったという。

 

その微かな記憶以外にも、小さい頃の記憶はぽつりぽつりあった。でも、物心がはっきりついた時には私は人前に出ることが苦手だった。今も得意という訳ではないが、人見知りで家族以外の人と話すのが怖くて、たぶん家族以外は宇宙人のように思ってたのかもしれない。いつも母の後ろに隠れてしまうほどの臆病者だった。そんな私とは反対に母はとても社交的で、誰とでもすぐに仲良くなっていく。知らない人なのに母に声を掛けてくる人もいたくらいだったし、私や兄弟たちのママ友がたくさんいた。子供同士は仲良くなくても関係なく、母はたくさんの色んなママ友に囲まれていた。そんな母は、もうこの頃から私の太陽のようで憧れの女性だった。私も、あんな風になりたいと思っても、人前に出るのが恥ずかしい。だけど、そんな私が6歳の時だったと思う。隣町の有名な公園にあったステージで、ちびっこのど自慢大会のようなものがあって、何故か私は出たのである。自分から出ると言ったのも覚えている。恥ずかしいくせに人前で歌を披露したらしい。何の歌を歌ったのかは覚えていないけど、他の子たちもみんなアニソンを歌ってたので、多分、あの曲だろうなという認識がある曲がある。本当はペガサス幻想や摩訶不思議アドベンチャーを歌いたかったけど、他の男の子が歌ってたため、あの曲にしたのは歌う時の踊り?振付?を覚えていたから。ということで、アニメの曲だったけど何の曲かどうかは敢えて書かないでおきます。

観客が家族以外の誰も知らない人ばかりだったからと、吹っ切れた気持ちで歌い切った。親も兄弟も、もう私は人前に出ても大丈夫だと思ったらしいが、翌日にはまた母の後ろに隠れる私に戻っていた。何故、この時は大丈夫だったのだろう。自分が自分じゃないような感覚は面白かったという心地よさを残したけれど、たぶん大きな声で歌を歌っただけというストレス発散だったということだと思う。

大人になった今となっては、何故こんなにも怖がっていたのかの理由はすぐ分かる。注目されること、誰かに見られて陰口を言われることが本当に怖かったのだ。今の自分は母のように知らない人にも話すことは怖くないのに、あの頃は自分なんて居ないものだと思っていてほしいとさえ思ってた。理由もなく人魚姫のように泡になって消えて無くなりたいなんて思ってた。

何故、人魚姫だったのかは分からないけど、小さい頃から本を読むのが好きだった。家には、従姉妹や親戚から譲られた絵本がたくさんあったし、母や祖父に連れられて区立の図書館に行って読みたい本を借りるのが好きだった。

自分の今いる世界ではない他人が見る世界を知れているようで、主人公の気持ちに感情移入しすぎていた。だからこそ余計にいつか「自分」という物が消えたっていいなんて考えを持ってたのだと思う。

子供ながらに、そんなことを親に言ってはいけないと分かっていたから隠していた。

 

だけど、同じ6歳の冬に父方の祖父が亡くなった。父方の祖母は私が生まれる、そのずっと前に父と母が出会う前の、父が学生時代亡くなっていたから写真でさえも見たことがない人だった。その分、父方の祖父がいっぱい可愛がって抱き締めてくれたのは覚えている。父方の祖父は国鉄に勤めていた人だったので、とても時間に正確だったのも何となく覚えている。そんな祖父の葬儀で初めて人の死に触れた。少し前まで一緒におしゃべりしていた人がもう動かなくなって、そして火葬されて骨になっていた。その骨を見た時、怖いという気持ちは起きなかったけれど、周りが皆んな悲しんでいるのがすごく分かった。もう、このおじいちゃんには会えないのだと悟った。

 

葬儀を終えて家に帰って来たとき、母方の祖父が待っていた。この時に私は覚えていることがある。「おじいちゃん、長生きしてね。」と伝えたのだ。この時、すでに祖父は80歳を超えていた。小さい体だけど片目が見えないという障害があっても、それ以外は大きな病気もなく健康だった。

いつしか祖父といることが多くなっていた。

 

そうして小学校に上がる頃になっても、人見知りはなかなか治らなかった。低学年の頃の担任の先生は元気な生徒が大好きで何かと贔屓をする先生だった。相変わらずの私は、この先生とはうまく合わなかった。むしろ上手くいくわけがない。元気な生徒を下の名前で呼び、問題があると思っているのであろう生徒は名字で呼ぶので、その差別は誰から見ても一目瞭然だった。もちろん、私は名字で呼ばれている方だった。

これは、幼稚園の頃からの幼馴染である男の子A君も同じだった。A君とはたまたま同じクラスになったこともあり、互いの家も歩いてすぐの場所だったこともあり、母とA君の母も仲良かったこともあり、近所付き合いが頻繁だった。そのせいもあってか、A君の家族に対しては人見知りをすることが殆どなくなった。

「慣れれば」大丈夫なんだと自分でも分かってきたけれど、どんなに経っても担任B先生には慣れることが出来なかった。少し落ち着きのない活発的で元気が有り余ってたA君も、この担任B先生には目を付けられて名字で呼ばれていた。

小学2年の寒い時期だったと思う。私は席替えでクラスで一番のいじめっ子の男子Cの隣になってしまった。いじめっ子なCでも担任の前では良い子だったので、担任は名前呼びをしていた。それもあって、本当に私はこのCが苦手だった。私が喋っても「幽霊がいる」「蚊の方が声が大きい」「声が小さくて不気味」みたいなことを言っていた。他のクラスメイトはその暴言に付き合っていたわけではなく私に同情もしなかったので、どんどんCは私に対してキツい言い方をしていった。

ある下校前のホームルームで、私が持っていたプリントが風に煽られて手を放してしまい、そのCの顔にちょんと当たってしまった。私は慌てて

「ごめんなさい」

と言って立ち上がって取ろうとしたら、

「いってーな!てめぇ、ふざけんなよ!!」

と言い放つや思いっきりお腹を蹴っ飛ばされ、私は自分の机の方へ体が叩きつけられた。

今まで兄弟喧嘩で手を出されることはあっても、蹴っ飛ばされたりすることは無かったから、この痛みは初めてのことだった。この時、視力が悪くなってきていたのでメガネを掛け始めていた頃だったので、まだ少し大きいメガネが外れて床にガシャンと落ちた。

近くに担任はいたのに、何事?みたいな顔で私を見おろしただけだった。でも、その時に席が離れているA君が勢いよく走ってきて、Cに体当たりして椅子から突き落とした。Cの方が体格が良かったけど、A君は私と同じように小さい方だったのに、物凄い勢いで体当たりしたせいか、そんなCも吹っ飛んだ。これには私もビックリした。

そんなこんなで転がるCに向かってA君は

「C!てめえ、何やってんだよ!女の子の腹を蹴っ飛ばすなんて最低だぞ!しかも愛ちゃんはメガネ掛けてるんだし弁償しやがれ!B先生も見て見ぬフリかよ?ふざけんな!」

と、ものすごく怒っていた。

 

その後、私たちは居残りをさせられて、事の顛末をB先生に話した。担任の前ではCが

「B先生、ボクの顔にプリントを”わざと”当ててきた百島が悪いんです。」

なんて、か弱いような感じに話していて気色悪かった。なにが「ボク」だ。いつもは「俺様」って言ってるくせにと思った。もちろん、私の隣で聞いていたA君も「吐き気がするぜ」って顔をしていた。私もそう思ったさ。わざとじゃないことを何度も話した。私は今までにないくらいの緊張も含め、教室のストーブが近かったせいもあって顔が熱くなって、どんどんのぼせてしまって鼻血が出た。

「うわっ、きったねー!」

と、Cは言ったけれど、A君がすぐにティッシュをくれた。B先生は何もしてくれなかった。この結果がすべてだと思った。

 

私の鼻血が止まるまでA君は付き添ってくれた。鼻血が止まって帰る時には同じクラスで同じ方角に帰っていた女の子たちは私を待っていることなく居なかった。A君が私の腕をずっと掴んで一緒に帰ってくれた。

「ごめんね?」と言ったけれど聞こえなかったようで、でも、A君に謝るのは、なんか違う気がしたから改めて

「A君、ありがとう。」と言い直すと、「おう。」とだけA君は言った。

友達としての私の人見知りの理解者は、このA君が一番最初だったんだと思う。

 

家に帰って、祖父にこの話をすると祖父はすぐにA君の家に向かって、A君に「孫を守ってくれてありがとう。」と言っていた。それにビックリしたのはA君のお母さんだった。秘密にしておこうと決めたわけじゃなかったけれど、A君にとっては自分のお母さんにバレるのは一番恥ずかしかったようだ。

このこともあって、私の母とA君の母はより一層仲良くなっていったし、A君の母からもたくさん助けてもらうことが増えた。

 

00.prologue

 ある日、部屋の荷物を片付けていると出てきたのは私が10歳の誕生日から25歳の途中まで書いていた日記だった。

 

手書きのもので大学ノートに1ページ以上を使っている日もあれば、一言二言で終わる日もあれば、しばらく書いていない日もあった。書いている文字も今と比べたら幼い文字だった。それでも頑張って漢字を使ったり、分からない漢字をカタカナにしたり、平仮名が多い時もある。自分の性格が昔から、こうだなって思った。

 

その日記の始まりは「アンネの日記を読んで、私も何か思ったことを書きたい」と書いてある。実に単純である。いや、それしかないくらいシンプルだった。アンネのようにたくさんの人に心を打つような言葉はないのにね。でも母との思い出、そして自分の半生を振り返るためにも私はその最初の1頁を開いて、その前の思い出と共に蘇らせた。